人生のメモ

琴線に触れた小さなことを、文章に。

答えがないものは苦手ですか?

将棋の世界を震撼させている中学生がいる。史上最年少14歳2か月でプロ棋士になった藤井聡太さんだ。現在、デビュー後の公式戦で17連勝中だという。今日はそんなプロのおっさんたちを蹴散らしている最強中学生の話から考えたことをお伝えする。

答えがないものを苦手とする人

これを書くきっかけは、先日のIPPONグランプリのオープニングで、松本人志が彼のことを話題にしたことだ。あるインタビューで彼が苦手な科目を聞かれた際、美術が苦手だと答えたそうだ。その理由が「答えがないから」だという。

確かに美術には答えがない。僕の周りでも数学が好きな人などはよく、この「答えがない」ものが苦手だと言っていた。このような人は、特に理系には割と多い。

それは答えが人によって違うもの

数学の試験では、答えがある。回答が「1」なのか「2」なのかで正解と不正解が明確に分かれる。美術ではそれはない。つまり、正解かどうかは作品を見た人の感性に委ねられる。恐らくそれが、彼らが言う「答えがない」の指すところだと思われる。

つまり、人によって答えが違うもの。将棋で言う「勝利」やビジネスでいう「利益(お金)」のような、誰にとっても同じ指標が、美術にはない。答えというより、「ゴールが不明確」と言ったほうがしっくりくるかもしれない。

そのようにゴールが不明確なものは、見る人の経験や知識、環境などによって答えが変化するため、やっかいではある。しかし、それが苦手というのも、やや不安に感じる。というのも、それらは人生で普通に登場してくるからだ。

人生だって、ゴールは不明確

例えば恋愛などもそうだろう。人の好みは千差万別だし、相手にとっての完璧な正解になることなんてできない。それでも好きな人と一緒になりたいという自分の思いを成就させるために、駆け引きの中で試行錯誤するわけだ。

例え付き合うことができたとしても、それが絶対の正解なのかどうかはわからない。あの時あの人を選んでいたら、今頃どんな人生だったのか。あの時告白していたら、未来は違ったかもしれない。もっと幸せになっていたかもしれないし、悲しい結末が待っていたかもしれない。

いつまで経っても、答えなんて誰にもわからないのだ。だから、多くの人と出会い、別れ、最も素敵だと思える人と一緒になるために、動き続けるしかない。

恋愛に加え、もちろん美術に近い音楽などのアートもそうだし、長い目で見れば人生そのものだって、ゴールは不明確である。何のために生きるのか?それは自分自身で見出すしかないし、日々変わっていくものかもしれない。

僕らが磨くべき感性とは

これから先、多くの仕事が機械に取って代わられるという。そんな時代が来たとき、僕ら人間が自信を持ってできることは何か。機械には任せられない、人間らしいものは何か。それは、このようなゴールが不明確なものなのではないだろうか。

人間にしかできないアーティスティックな部分は、これからますます重要になってくるだろう。現代で言えば、先日「君の名は。」が人気になったが、これも素晴らしい美術作品の1つだろうし、この映画が機械に作れるようになるとは、今はまだ思えない。

ゴールが不明確なものは、難しい。しかし、不明確だからこそ、自分の感性を信じて、前に進み続けるしかない。僕を含め、人の目ばかり気にしている日本人には難しい部分かもしれないが、きっとこれから誰もが強く意識しだすのだろう。

 

それ捨てるなら、もらっていい?

レンコンという野菜がある。漢字で書くと「蓮根」、文字通り蓮の根っこの一部だ。いつも思うのだが、あれが食材として成り立っていることにやや疑問を感じる。

レンコン農家の人には悪いが、個人的に全然好きではない。食べられないわけではないが、わざわざ買って食べるほどの魅力を感じない。

レンコンを食材に採用した不思議

あの穴の空いた地味な見た目、曖昧な歯ごたえ、たまに引っかかる繊維、何とも言えない味、どれを取ってもイマイチではないか。

たとえ僕が、まだレンコンが食用でない時代にレンコンを初めて食べたとしても、「あ、これ、食べてもイケまっせ!」なんて判断は下さないだろう。「あぁ、こんな味ね…」ぐらいの感想を呟いて迷いなく捨てる自信がある。

しかしながら今レンコンは、日本では普通に流通しており、一般家庭で何の疑問もなく食べられている。おせちでも使われているぐらいの地位を確立している。

しかも穴が多いから「先を見通す」として縁起が良いという。レンコンの穴で先を見通すという発想がもうヤバい。昔の人の「こじつけ力」には恐れ入る。

一見捨てられそうなものの活用

レンコンについて語ってしまったが、今回書きたいのはレンコンの未来ではなく、このような「一見捨てられそうなもの」の活用についてだ。

レンコンは欧米では食べないそうだ。ちなみにゴボウも、食べるのは日本だけらしい。欧米から見れば「よくあんなモン食えるなジャパニーズは…クレイジーだ」という感覚なのだろう。欧米で捨てられるものでも、日本では無くてはならない存在になりうるということだ。

つい先日ニュースで見たが、魚介類でも本来捨てていたものを活用する動きがあるようだ。ある漁場で、マイナー魚・未利用魚という「大きさが不揃い、量が安定しない、知名度が低い、鮮度が落ちやすい、調理が面倒」といった理由で流通しづらい魚を料理して出してみたところ、意外と評判が良く、注目が集まっているという。

他にも、スウェーデンではゴミを輸入して、エネルギーに変えているなんて話も聞いたことがある。他の国にとって捨てるものでしかないものを、わざわざ輸入するのだ。スウェーデンはリサイクル意識が高いと言うが、ゴミを輸入するほどとは恐ろしい。ゴミの分別を適当にしたら殺されそうだ。

僕らが日々出している、捨てるもの

これらの例を見ると、「誰かにとっては捨てるもの」でも「他の誰かにとってはお金を出してでも必要なもの」になることが、多々あることがわかる。では一般的な個人単位でも、そのようなものがないだろうか。

僕らが普段から捨てているもの。特に売買目的もなく日々吐き出しているもの。物理的なゴミ類は置いておいて、例えばTwitterのツイートや、ブログの記事なども、似たようなもののように感じる。広告収入にはなっても、記事を売っている人は多くない。

一般人がなんとなく書いた記事たちも、他の誰かにとっては、お金を出してでも買いたいという場合があるのかもしれない。レンコンやゴボウを買う日本人がいるように。マイナー魚が人気を博したり、スウェーデンでゴミが輸入されているように。

などと少し夢見てみたが、そもそも無料ベースのWebの世界ではそれはハードルが高いのは事実だろう。また、レンコンたちも、一定の特徴や旨味を持っているが故に買われるのだろう。社畜サラリーマンのブログでは、「他の誰か」を見つけるのは大変そうだ。

日々、面白いと思ってもらえるようにブログを書いているつもりだ。しかし他人がお金を出しても欲しいと言ってくれる程のものにするには、少なくとも何か大きな変化が必要である。まだその変化の仕方は見えていない。とりあえずスーパーにでも行き、レンコンの穴から未来を見通してみようか。

ネット依存と飲酒・喫煙の因果関係

「ネット依存」が疑われる中高生は、飲酒や喫煙をよくする生徒ほど該当する割合が高い。そんな結果が、厚生労働省の分析でわかったそうだ。…本当にそうだろうか?

「ネット依存」の中高生、飲酒・喫煙傾向 厚労省が分析:朝日新聞デジタル

ネットをやるから酒タバコをやるのか?酒タバコをやるからネットをやるのか?客観的に見て、あまり因果関係があるとは思えない。厚生労働省の調査と言われると信じてしまいそうになるが、極めて怪しい。

この記事に対して多くの懐疑的コメントが寄せられているように、恐らくどちらでもないだろう。普通に考えれば、真面目に勉強するような学生はどっちも控えそうだし、怠け者はどっちも好きそうだ。

競馬で見つける因果関係

因果関係というものは、なかなかに難しい。僕は以前、競馬で儲けたいと思い、データ分析にチャレンジしたことがある。もう心から働きたくなくなったのだ。今もだが。

と言っても競馬もデータ分析も初心者なので、大した調査はできなかったし、儲けるところまではいかなかったのだが、調査自体はそれなりに面白かった。

競馬では、馬の人気、年齢、体重、出場回数、騎手、コースなどの様々な要素がある。利益(回収率)を最大化するためには、どの要素が関係するのかを調査する。統計的に見て因果関係がわかれば、儲かる買い方がわかるわけだ。

関係の有無を見分けるのは難しい

当時の記憶ベースになるが、例えば単勝回収率だと、人気が1位の馬より、4〜8位ぐらいの馬の方が回収率が高い。多くの人が人気の高い馬を好んで買うが、回収率目線で見れば間違っている。これは、人気がない馬の方がオッズが上がる一方で、勝率そのものは人気と必ずしも比例しないためだ。

他にも数年単位でデータを調べてみると、年齢が5歳の馬が回収率が安定していたり、前回の順位が4位ぐらいの回収率が良かったりした。中には、複数組み合わせると、直近5年では毎年回収率が120%近くなる要素もあった。

しかしそれらの傾向は、調査の期間次第でも大きく変わる。直近の5年で見れば因果関係がハッキリ出ているように見えても、10年で見るとそうでもなかったりする。

過去のデータ上はどんな魅力的な結果でも、未来で通用しなければ意味がない。このあたりのリスクを取れる人が本当のギャンブラーなのかもしれないが、社畜サラリーマンの僕には厳しく、断念した思い出がある。

思わぬところで繋がるものもある

そのように、パッと見では何と何が因果関係があるのかはわからないし、そもそも調査要素が足りているのか不足しているのか、それぞれの要素が独立しているのか相互作用を起こしているのかなど、人の目では正直わかりにくい。

有名な話で、「おむつを買った人はビールを買う傾向がある」というものがある。「子供のいる家庭では母親は紙おむつを買うように父親に頼み、店に来た父親はついでに缶ビールを購入していた。そこでこの2つを並べて陳列したところ、売り上げが上昇した」というものだ。

おむつとビールという、一見無関係に見えるものも、こうして繋がることもある。そういう意味では、調査する対象を見逃している可能性は十分にある。冒頭のネット依存と酒タバコの例で見ても、他の要素の調査が進めば、繋がりが見えてくるだろう。

今、IoTによる情報収集量の増加に加え、人工知能の発展も進んでいる。これらのテクノロジーの活躍により、今後は世の中の知られざる因果関係が、次々と明らかになっていくのかもしれない。

僕らが日々、諦めているもの

NHKの子ども向け番組「おかあさんといっしょ」で活躍している歌のお兄さん。彼らは数年ごとに入れ替わるのだが、その11代目であった「だいすけお兄さん」が、先日番組を卒業した。9年間出演していたそうだ。

歌のお兄さんの恐るべき契約条件

子供がいる家庭では、見ない日はないぐらい人気のある番組なので、知っている人も多いだろう。そんな彼が、長きNHKの縛りから解き放たれ、他局の番組に出演した。

そこで明らかになった契約条件が、あまりに過酷過ぎて驚いた。日々の撮影や爽やかなイメージのためらしいのだが、普通の企業では考えられないレベルなのである。ここに書かれているものだけでも、これだけのものが禁止されている。

  • 恋愛
  • NHK以外のテレビ番組出演
  • 海外旅行
  • スキー
  • 自動車の運転
  • 派手なネイル
  • 立ち食い
  • ななめ横断
  • 新宿・歌舞伎町を歩くこと

20代の恋愛まで捨てて働くこと

現在33歳らしいので、24歳のときから9年間これらを遵守したということになる。どれも完全にプライベートの話だ。

確かに歌舞伎町でお兄さんが遊んでいる写真をSNSにアップされたりしたら、子供たちに不安を与えるかもしれない。しかしアイドルでもないのに恋愛まで禁止するのは、さすがに厳しすぎやしないか。ここにNHKの執念というか、堅苦しさが垣間見える。

特に20代の恋愛なんて、他の何にも変えられないぐらい、今後の人生を左右するものだ。後からやり直すこともできない。それを承知の上で契約したお兄さんには、心から恐れ入る。

裏でこっそりできなくはない気もするが、週刊文春なんかに見つかった日には、この世の終わりである。

僕らが日々、諦めているもの

機会費用、という言葉がある。何かを選択するときに、諦めているもののコストである。上のお兄さんの例もそうだし、僕がブログを書いているこの時間も、何かを諦めている。

例えばこの時間を、資格の勉強や仕事の情報収集に当てれば、もっと高い収入が得られるかもしれない。この時間を、面白いゲームにでも費やせば、ストレス発散になるのかもしれない。

それでも、敢えてブログを選んでいる。それがコストなのである。ブログを書けばタダで広告収入で儲けられるなんて考えはやめた方がいい。

ブログを書くなら、この機会費用を踏まえた上で、ブログで得られるものの方が価値があるかどうか判断した方がいい。自分の考えの整理だったり、文章力や速度の向上だったり、人との繋がりだったり、日々の記録だったり、もちろん広告収入もだが、そういうものに大きな価値を感じる場合である。

これは普通に会社で働く場合も同様だ。本当は今の会社以外で、他に素晴らしい生き方があるかもしれない。それを諦めて生きているのかもしれない。1度レールに乗ってしまうと外れるのは難しいものだが、自分にとって幸せな生き方を、常に探していきたいものである。

ネットで最高の結婚相手が見つかる時代

「楽天オーネット」のCMが流れていた。いわゆる婚活用のマッチングサービスだ。希望条件を登録しておけば、そのデータに基づいて自分に合いそうな人を紹介してくれるというものである。CMでは、見知らぬ男女が様々な項目でマッチして結ばれる様子が描かれていた。

一般的な出会いと選択

このようなサービスを使わない場合、付き合ったり結婚する相手を、様々なデータを整理してマッチングさせて決める人は少ないだろう。

周りを見ても、実生活の中で出会った異性の中から、気になる人とコミュニケーションしつつ、感覚的に楽しく過ごせる人と一緒になることが多い。

もちろん相手とのコミュニケーションの中で得た情報を元にして決めるとは思うが、1つ1つの条件を可視化したり比較したりまではしていない。条件を事細かくメモってチェックしている人がいたら少し怖い。

つまりは、実生活の中で、そして自分の感覚で選ぶのである。

データによるマッチング

一方、上で紹介したような婚活サービスを使うと、登録されたデータベースから相手を探す。候補は登録者全員であり、その中から適した人が選ばれる。

そして、全てのデータが可視化される。そのデータは他の登録者と比較され、論理的に最も自分に適した相手が選出される。多少は人間が介在するのだろうが、基本はコンピュータが条件を見て選ぶだろう。

加えて、最近は人工知能の発展により、過去の他者のマッチング結果も活かされる。「このデータの人とこのデータの人は合いやすい」といった統計情報も参考に選出される。その精度は、回数を重ねるごとに上がっていく。

つまり、婚活をしている登録者全員の中から、論理的に自分とマッチしそうな人を選ぶことになる。これは、実生活の中で感覚で選ぶよりも、間口が広く、確実な選び方に思われる。

もし、完璧にマッチする人がいたら

そう考えると、後者のほうが圧倒的にメリットがある気がしてくる。魅力的な人は婚活サービスなど使わずに実生活で相手を見つけてしまうのが現状だが、実際はその人にも、実は他に適した人がいる可能性が高い。

これからますますIoTが発展することで、個人から収集できるデータは増えていく。それらもマッチングの参考データに加われば、実生活では出会えないような自分にピッタリの人に出会える世界が来るだろう。

そうして今後、「マッチングサービスを使うといい出会いがたくさんある」というイメージが付いたら、誰もがそれを使い出すと思う。

10数年前は、「ネットの出会いなんて怖い…」と言われていたが、今ではSNSを通じて誰でも容易に出会える時代になった。その流れは、これから更に大きくなり、僕らの生活に入り組んでくるのではないだろうか。

使える人、作れる人

最近、このブログを読者登録してくれる人が増えてきた。ありがたいことだ。せっかくなので読者の方々を思いっきり楽しませたいところなのだが、社畜リーマンにできる話なんてたかが知れている。

もし僕が美人女子大生ならお詫びにおっぱいでもお見せしてあげるのだが、残念ながらそれもない。おっさんですまない。来世は頑張る。

個性が消えたレイアウトたち

そんな感謝も含め、読者登録してくれる人たちをメインに、いろんなブログを読んでみた。趣味に走る人、日常を綴る人、ブログを語る人、いろんな人がいて面白い。

しかし当然ながら「はてなブログ」という枠組みでは同じである。そのため、レイアウトとしては似ているものが多い。このブログなんてほとんどデフォルトだから、他の人とかぶりまくっている。シンプルで見やすいとは思うが、個性はない。

はてなブログだけでなく、AmebaやLivedoorなどいくつかブログサービスはあるが、どれも細かなカスタマイズを想定された作りにはなっていない。テーマを選んで、多少のレイアウト変更はできるものの、あくまで用意されたコンテンツを並べる程度だ。

1からモノを作れる人の強さ

今でこそ、そのようなブログサービスが一般的になったが、インターネットが流行り始めた頃は当然そんなものはなく、ウェブサイトはどれも管理者によって1から作られていた。サーバにお手製のファイルを配置するのである。

色も形も大きさも、全てが作り手の自由で、良くも悪くも個性に溢れていた。そこから、HTMLだけでなくCSSやJavaScriptなどを用いた様々な表現方法が発展し、ウェブ上ではさらに様々なことができるようになった。

しかし今、ブログを始める人の多くは、それらの仕組みを学ばずに、ブログサービスを使う。というより、学ばなくてよくなった、と言った方が正しいだろう。自分で作るよりブログサービスを使う方が簡単だし、そちらを選択する人が多いのは当然である。

けれども、便利なサービスに乗っかるだけでは、「あれをこうしたい」という細かい部分に手が届かず、似たりよったりになってしまう。1からサイトを作れる人の表現力には到底及ばない。

使える人になるか、作れる人になるか

ウェブサイトを例に取ったが、テクノロジーは大抵似たような流れを取る。新しい技術が出てきては、先駆者が試行錯誤を重ねて進化し、最終的には何も知らないユーザーでも簡単に使えるような仕組みが提供される。

僕らが気軽に手にしているスマホもそうである。元は専門家が研究室で難解なコマンドを打って動かしていたコンピュータが、改良に改良を重ねられ、PCという一般人でも使える汎用的な形になり、より簡単に扱えるスマホに進化した。

大小はあるが、テクノロジーとはそういうものであり、そして1からモノを作れる人は、そのテクノロジーが続く間は活躍できる。一般人では届かない、かゆいところに手が届くためだ。

PCやスマホのようなハードの世界で個人が何かを作るのは難しいが、先のHTMLなどを含むソフト側であれば、ある程度の業界標準が整ってしまえば、個人でも様々なことが実現できる。誰かが提供してくれたサービスを使うのではなく、自分で作れるようになることで、できなかったことができるようになる。

始めるなら、今だ

とは言え、今更HTMLを学ぼうとかそういう話をしたいわけではなく、 今僕が考えているのは、次の時代の準備をするなら、今が良いタイミングなのではないかということだ。

今、第4次産業革命とも言われるように、様々なところで変化が起きている。例えばAI(人工知能)は、これから人々の生活には欠かせなくなると言われている。一方で、まだ一般人が簡単に使えるようなAIサービスが提供されるところまでは至っていない。

しかしながら、ウェブや書籍を見れば、人工知能の情報はいくらでも出てきている。僕が数年前にAIが気になりだした頃は、本屋に関連書籍が数冊あるかないかだったが、今やどの書店にも数十冊単位で置いてある。個人が触れるレベルまで来ている証拠だろう。

今のうちに勉強して、何かを作れる人になっておけば、きっとこの先大きく活躍できる。始めるなら、今だろう。

最大公約数には価値がない

NewsPicksというアプリを使っている人はいるだろうか。このアプリでは、様々なジャンルのニュースや記事に対し、幅広い業種の人が、実名でコメントを書き込む。

専門家や有識者の多様な意見が読める上に、モラルを欠いた書き込みも少なく、僕が重宝しているアプリの1つだ。

日経新聞もテレビもつまらない

その中で個人的に面白いなと思う表現があった。堀江貴文氏と落合陽一氏の対談の記事だ。2人ともテクノロジーに精通した有名人であり、個人的にも彼らの言動にはかなり注目している。その対談の中で、こんな言葉が出た。

最大公約数には価値がない。

これだけ読んでも意味がわからないと思うので簡単に具体例で補足しておく。

彼らが言うには、日経新聞の記事の解説などを見ていても、当たり障りのないことしか書いてなくてつまらない、とのこと。テレビもメディアとして中立であろうとし、ポジショントークなども行われるため、つまらないという。

他にも例を出しているが、そのような事実をまとめて、「最大公約数には価値がない」と表現したのだ。誰もが受け入れられるような平均的な意見には、意味がない。言い方は厳しいが、これは普段から情報を発信しているすべての人が意識すべきだと思う。

誰かの怒りを恐れていないか

しかしながら、それは簡単なことではない。ブログを書いている人ならわかると思うが、せっかく書くなら多くの人に読んでほしい。できれば人気者になりたい。これは自然な感情だろう。

そして人気者になろうとすると、多くの人から嫌われない方を選んでしまう。結果的に、尖った意見は言えなくなる。それは上で言う「最大公約数」を選んでいるということだ。

つまり、誰にも嫌われないように、怒られないように気をつけて書いた内容は、結局誰の心にも刺さらない、価値のないものになる。人気を集めようとして、結果的に人気を得られなくなってしまうわけだ。

実生活とメディアでは、求めるものが違う

当たり障りのないことしか書けない人は、まずは「多くの人に好かれたい、嫌われたくない」という考え方そのものを改めたほうが良いのだろう。誰かの人気者になるには、他の誰かから嫌われる覚悟が要るのである。

僕自身、あまり尖った意見をズバズバ言う人と関わるのはあまり好きではなかったりするし、そういう人は多い。しかしそれはあくまで実生活で自分と直接関わる人の場合である。

そうではない、自分とは関係のないメディアの中に対しては、多くの人が、遠慮のない尖った意見を求める。

もちろん、そのような意見には、裏付けされる知識や理解が必要だ。また、説得力を出すには、ある程度の成果も必要かもしれない。日々の積み重ねがものを言うのだろう。それが無理なら、高いユーモア性や、情報の新鮮さなど、別の部分で勝負していけばいい。

僕もたまには、公約数から外れた記事を思いっきり書いてみようと思う。

明るいニュースはないのかい

長い連休が明けた。ギリギリまで現実逃避しながらGW最後の夜は乗り越えたものの、やはり朝になってしまうと現実がのしかかる。僕はサラリーマンであり、家族を支える立場であり、働かなければ生きていけないという現実を。

ニュースアプリを見て感じた不満

と言いながらもまだブログを書くことで、ささやかな逃避を続けている。連休明けということで、明るい話題がいい。何がいいだろうか。とりあえずネットニュースを眺めてみる。

こうしてみると、ハッピーなニュースはほとんど無いということに気づく。これ、どうなんだろうか。やれ教師に休憩がないだの、アパートが燃えただの、誰かが誰かを殺しただの、イノシシが暴れてるだの…あぁ暗い!暗すぎる!限定的な暗いニュースを、朝から無関係の全国民に見せつけるんじゃない!

今や20〜40代は、3人に1人が電車内でスマホを見ているそうだ。

スマホ、読書に広告チェック?みんなが電車内でよくすること – しらべぇ | 気になるアレを大調査ニュース!

もちろんSNSやゲームの割合も多いだろうが、通勤電車となればニュースを見る割合も高いだろう。そこで朝から暗いニュースばかり見せつけられても、全然気持ちが上がらない。そうは思わないかサラリーマンの諸君。

明るいニュースを教えてくれよ

もちろん明るいニュースだけでは、問題意識が生まれないため、何事も改善することができず前に進めなくなる。しかし、ハッピーなニュースで人々の心を弾ませるのも、ニュースアプリができる1つの社会貢献なのではないか。

悪いことは拡散されやすいが、良いことは目立たない。それはよくあることである。しかし、これほどまでに人々がネットで繋がった時代、ハッピーなニュースは、探せばそこら中に転がっているだろう。

Yahoo!アプリやスマートニュースなどのアプリで、ハッピーチャンネルのようなものを作ってくれないだろうか。世の中って悪くないのかもなぁ、と思えるような光り輝くニュース群を見せつけてくれないだろうか。朝からそんなことを考えた。

心弾むものって何だろう

なんて考えたものの、例えば明るいニュースって何があるだろうと思って探してみると、なかなか難しい。今日ざっと見たYahoo!ニュースの中で、心が弾むようなポジティブなニュースは…「座れる通勤列車が増えている」ぐらいか。微妙すぎる…。大して弾まん。そんなことより今すぐ僕を座らせてくれ。

誰かが結婚したとか、出産したとかいうニュースは、明るいとは言え、関係ない人には興味を持たれない。何だろう、心弾むニュースって。「今日から日本国民は働かなくても生活費支給します」とかかな。全力で弾むね。弾みすぎて破裂するかも。

現実逃避はこれぐらいにして、働いてきます。頑張りましょうサラリーマンの皆様。

「ゲス不倫」の当事者の話を聞いて

「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音さんが、「ワイドナショー」というテレビ番組に出演していた。前日から、「明日のワイドナショーに川谷絵音が出演する」とTwitterでも話題になっていた。理由はもちろん、不倫の話題になることが想定されたからだ。

個人的には、不倫なんて他人が口出しすべきではないと思うのだが、あの渦中にいた本人が当時のメディアに対してどのように感じていたのかは、聞いてみたかった。個人ブログも言ってみればメディアの一部なので、その辺りの扱いには普段から興味がある。

メディアの作り出すイメージの恐ろしさ

番組を見る限りでは、川谷さんは意外としっかりした人だな、という印象を持った。擁護するわけではないが、「ゲス不倫」という単語から想像されるゲスなイメージとは違い、芯の通った人に見えた。メディアが作り上げるイメージは恐ろしいなと実感した。

マスコミは、よく「マスゴミ」と揶揄されるほどプライバシーを気にしない。メディアは、人を人とは思わないような報道を繰り返す。

その視聴者となる大衆も、報道対象に非があるとわかるやいなや、メディアのノリに同調する。その大衆を盛り上げようと、メディアはさらに過激な内容を投下する。結果として、本人のいないところでイメージが膨らみ続ける。

僕は、スキャンダルがある度に発生するこの流れが嫌いなのだが、そういう報道を好物にするワイドショー好きな人がたくさんいる以上、避けられないのだろう。

インターネットによる、殺伐とした世界

そしてこの動きは、インターネットが普及されたことでさらに助長された。報道の仕事をしていなくても、ブログやTwitterなどのSNSで、誰でも意見を述べたり拡散したりすることができる。結果として、発信することに慣れていなかったり、誇張しすぎることに抵抗のない一般人も、メディアの一部となった。

一般人がもう少しリテラシーを持てれば、メディアで作り上げられる異常なイメージも多少はマシになると思うのだが。川谷さんは毎日「死ね」と言われたり、殺人予告が来たりすると言っていた。不倫したとは言え、全く関係のない人間から、そこまで悲しいことを言われるなんて、さすがに殺伐としすぎている気がする。

週刊文春より非道なネットニュース

そんな内容に関連して、川谷さんのコメントの1つで、気になったものがあったので紹介する。

週刊文春ではちゃんといい感じで書いてあったが、ネットニュースでは変なところだけ切り取られた

一連の不倫騒動について我先にと記事に仕立て上げていた「週刊文春」。川谷さんが心の拠り所がない程落ち込んでいたときに、その週刊文春の記者に全てを話したそうだ。

それはもう、記者への相談に近かったという。すると、週刊文春はいい感じに書いてくれたが、それを拾ったネットニュースでは変なところだけ切り取られたそうだ。ネットではより多くの人にシェアされるように、誤解を生むような誇張した内容にしたのだろう。

個人的には、「週刊文春は酷い雑誌だ」というイメージがあった。人の不幸を食い物にして稼いでいる嫌な雑誌だと思っていた。

しかしこの件で見ると、もっと酷いのはネットニュースだったようにも受け取れる。「誰でも自由に使える」というインターネットの大きなメリットは、「信頼性のなさ」という大きなデメリットを産んでいると言える。

当たり前のことを、当たり前に

こういう状況を見ると、誰もがネットでノーリスクで儲けられるアフィリエイトやアドセンスの仕組みが、ネットの未来に悪い影響を及ぼさないだろうかと不安になる。しかし根本的には、悪いのはそれらの仕組みではなく、ネットを使う人間そのものにある。

不倫は良くないが、嘘や誇張し過ぎも良くない。技術の進歩に伴い凄まじい速さで発展してきたネット社会だが、それを使いこなす人間は、そんな当たり前のことすら、まだできていないのかもしれない。

LINEみどりくじで選ばれる10人

「LINEみどりくじ」なるものが送られてきた。LINEユーザーなら誰もが送り合える宝くじだ。なんと最大100万円を、送り手と受け手が半分ずつゲットできるという。

何もしてないのに、50万円が舞い込んでくるわけだ。毎日真面目に生きていれば、たまには良いことがあるものだ。神様は、しっかり僕らを見ていらっしゃる。ありがとう神様。


f:id:waramarogu:20170501200735j:image

ハズレた。

10人の親密な友達という壁

ところでこのくじは、送り手にもメリットがある。誰かに送れば、自分が50万円ゲットできるかもしれないわけだ。となると、できるだけ多くの人に送りたい。しかし送れる人数は「10人」と決まっている。この10人という枠が、僕を悩ませる。


f:id:waramarogu:20170501200751j:image

当たれば送り先にも50万円のプレゼントになるわけだから、そこそこ親密な人に送るのが普通だろう。しかし送られた側は「10人に選ばれた」ということを意識することになる。「え、俺コイツの親密な仲間トップ10に選ばれたのかよマジかよ」なんて思われたら、この先顔を合わせられない。

結果、家族と、ほんの一部の友達にしか送れない。「俺はコイツのトップ10に入って当然だろう」と思ってくれる友達は多くない。LINEみどりくじは、そんな悲しい現実を僕に見せつける。当たりもしないくせに、悲しみだけを運んでくる。

お互いに得するサービスを使いこなそう

このように、送った人と送られた人、紹介した人と紹介された人が、共にメリットを受けられるサービスは意外に多い。配車アプリの「Uber」や、そこから派生した出前アプリの「UberEATS」なんかも、お互いに2000円ぐらいの無料クーポンが貰えたりする。

どちらも首都圏のみであり、僕の家は利用エリア外であったが、利用エリア内に住んでいる人は使ってみるといいだろう。タダでタクシーに乗れて出前も取れるのだから、使わないと損である。

ちなみにホリエモンは、UberEATSのクーポンだけで37万円分貯まっているそうだ。どうやらクーポンコードをツイートするだけで貯まるそうで。全く、これだから有名人は。ねぇ。

持ちつ持たれつ生きていこう

そういえば「はてなブログ」でも、ブックマークし合ったり、星を付け合ったりする慣習があるようだ。確かにこの世は持ちつ持たれつなのは十分理解しているし、僕もたまには恩返し的なこともする。しかし、僕はあまり興味のベクトルが違う記事に対しては、ブックマークする気にはなれない。

せっかくなら、「これ面白い!」と心から思った記事にコメントしたいし、書いた方もそうして欲しいと思うのだ。「この前ブックマークしてくれたから、お返しにブックマークしてあげる」という馴れ合いが続くと、お互いダメになってしまう気がする。

また、ブックマークはまだしも、「星」をつけるのは、あまり意味がないように感じてしまう。星はいわゆる「イイね」の印だと思うが、これはブログには少し合わない気がしている。

TwitterやFacebookぐらい軽いものであれば「イイね」程度の意思表示でもいいと思うのだが、長々と書いたブログの記事1つに対して「イイね」では、どこに対してどう感じたのかが伝わらず、モヤモヤする。気にしすぎだとは思うが、気になってしまう。

もちろんこれは個人的な考えであり、「それがモチベーションになるんだ」という人もいるだろうし、それを否定するものではない。むしろその方が、持ちつ持たれつという、人間らしい美しい考え方なのかもしれない。それでも、本当に面白いと感じたものを賞賛し合うことが、ブログをより面白くする近道だと思うのだ。