プレミアムフライデーを失敗にしたい人たち
昨日はプレミアムフライデーだった。あなたは早く帰れただろうか。僕は帰れなかった。残念ながら当然のように打ち合わせが入っていて、プレミアムらしさはゼロだった。同じような境遇の人は多いようだ。
プレミアムフライデー、経産省は未だ失敗を認めず 「手ごたえはある。給料日後なら贅沢できるはず」 - エキサイトニュース
プレミアムフライデーに対するネガティブ意見
15時退社できている人は3.7%だという。しかし僕がこの記事を見て思ったのは、世間はネガティブ過ぎないか?ということだ。
そもそもタイトルが「プレミアムフライデー、経産省は未だ失敗を認めず」である。もう失敗を認めて諦めろよ、という言い方だ。Twitterを見ても、「できるわけない」といった否定的な意見も多く、たしかに実際諦めている人もいる。
本当に、失敗にしたいのか?
気持ちはわからなくはない。僕も実際プレミアムれなかった。とはいえ、失敗を認めて終わりにしたら、何も変わらず残業漬けの金曜日である。本当にそれでいいのか?せっかく国が早帰りを認めているのに、何もなかったことにしたいのか?
出る杭は打たれるという言葉があるが、日本では新しいことをすると叩かれる風潮がある。既得権益を守り、今の自分を守ることに必死な人たちが、現状を変えまいとして新しく出た芽を潰す。
この風潮は、変化の早くなった現代においては、きっとこの先大きな足かせになるだろう。
変わるのはこれから
今回のプレミアムフライデーへの反発は、「現状を変えたくない」と言うよりは「変えたくても変えられない」という意見である。しかしどちらにしろ諦めたら一緒だ。「変わらないこと」を選択したことになる。
制度に合わせて現場を変えるのは現場の役目だ。どうしたらプレミアムを実現できるのか、考えていこう。国のやり方が下手だと思うなら、それを発信していこう。そう考える人がもっといてもいいんじゃないか。
そんなことを考えた、4度目のプレミアムフライデー。まだたったの4回である。変わるのは、これからだ。
CD売れない、チケット高い、音楽業界の悲鳴
音楽業界団体が自ら立ち上げた、コンサートチケットの公式リセールサービス「チケトレ」が6月1日にオープンする。チケットの高額転売を抑え、購入チケットをファン同士で定価で譲り合えるようにするのが目的だ。
「このままでは業界全体が死ぬ」今、音楽業界が「転売NO」を叫ぶ理由
チケット転売は、音楽業界の死活問題…?
一見ライブ好きには助かるサービスだが、高額転売への効果があるのかは正直言って疑問である。それより最初に気になったのは、記事のこの部分だ。
CDの売り上げが下がり、今ほぼ唯一と言っていいほど収益源になっているライブやコンサートの領域で成長を阻害されるのは、今後の業界全体の発展を考えると、死活問題だ。長期的にアーティストたちが生産活動できなくなっていく可能性がある。
音楽業界は、こんなことはとっくにわかっていたはずである。そもそも、いつまでもCDにしがみついているのが、おかしいのではないか。未だにネットで曲を買えない人気アーティストが多数いるが、さすがに時代遅れと感じざるを得ない。
ネットには姿を出さないジャニーズ
話が少し逸れるが、ジャニーズはテレビの映像もネット配信されていない。雑誌のネット配信でも、彼らの写っている部分は完全に塗りつぶされている。曲も映像も写真もネットには出さないという一貫したビジネスモデルである。
ネットに出さないことで敢えて希少性を生み出しているのかもしれない。AKBなどとは逆に、手の届かないところにいるということを、売りにしているのかもしれない。しかしそれに対して、もどかしく感じているファンも多いだろう。
個人的には、せめて曲ぐらいはネット配信してもいいのではないかと思うのだが、恐らく彼らに限って言えば、まだまだCDの売上があると思われる。躊躇なくお金を注ぎ込む根強い女性ファンが多い印象は未だに強い。
CDが売れないからライブに頼る姿勢
話を戻すが、音楽業界は基本的にCDがほとんど買われないのだから、収益を上げたいなら、まずはそちらを何とかした方がよいのではないか。単純に音楽を聴く人より、ライブに行く人の方が圧倒的に少ないのだから。CD売れないからライブチケットを!と叫ぶのは少し違和感がある。
当然、ネット配信についても既にいろいろ考えられているとは思う。若者は怪しい無料音楽アプリで聴いたりするので、対策が難しいかもしれない。コピー対策技術や、ネット購入による付加価値なども要るだろう。ただ、この時代にネット配信しない、という選択はさすがにどうかと思う。
今回オープンするサービスで、並行してチケットも売れるようにしたい、というのは当然の思いだろう。しかし、定価で譲ることを前提にするこのサービスが流行るとは思えない。確かに他の胡散臭いサービスより「公式」という安心感はあるが、お金の面では買う方にしかメリットがない。この辺も、今後どうやって売る人にインセンティブを与えるのかが課題になってくるだろう。
うーん…終始真面目な記事になってしまった。
AlphaGoが見せつける未来への憧れ
Googleの人工知能「AlphaGo」が、世界最強の囲碁棋士、柯潔(Ke Jie)九段と戦っている。全3局で、第1局はアルファ碁が勝利したそうだ。AlphaGoは以前にも他のプロ棋士を打ち負かしたことはあったが、今回も早速勝利を飾った。
グーグルのアルファ碁、世界最強の中国人棋士と対戦 第1局で勝利 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News
自信満々の棋士を打ち負かす人工知能
下記の引用からもわかるように、対局前、この棋士はかなり強気だったようだ。
2年以上トップ棋士の座に君臨し、自らを「自信家」と形容したこともある柯氏は昨年、アルファ碁との対戦を視野に「やれるものならやってみろ!」と挑発し、機械には絶対に負けないと豪語していた。
これほど自信を持っていたトップ棋士が、AlphaGoとの対局後には、完全に打ちひしがれている。少し笑ってしまうぐらいに態度が一変しているが、これが人工知能の力である。
柯氏は22日、中国版ツイッター(Twitter)の「新浪微博(Sina Weibo)」に「AIの進歩はわれわれの想像をはるかに超えている」と投稿。同時に、今回の勝負を終えたら二度と対戦しないと改めて明言した。
世界最強とも言われたほどの人間でも、あっさりと負けを認めるほど、人工知能は進化を遂げている。これほどまでに差をつけられると、もはや人間は、囲碁の世界では人工知能に勝てないのかもしれない。
人工知能が日常に溶け込む日
AlphaGoの活躍を見ていると、記憶力や計算力の分野だけではなく、過去のデータから新しい手を生み出すという意味でも、機械は人間を超えたことを実感する。となると今後、人工知能は様々なジャンルで人間よりも良い仕事をするようになるのは間違いない。
過去、機械は幾度となく人間の力を凌駕してきた。車は人間より早く走るし、飛行機は人間には不可能な「空を飛ぶ」という夢を成し遂げた。そしてどれも発明当時は大きなインパクトを持つものだったが、今や日常生活の一部となっている。
そして人工知能も、過去の発明と同様に、日常に取り込まれていくのだろう。過去のデータが蓄積されるものは、すべからく人工知能によって分析され、予測や改善がされていくだろう。それも、人間よりもはるかに高い精度で。
人間としての期待と不安
僕はこの「人間 vs 人工知能」のイベントで、人工知能が勝つことを期待していた。それは未来の変化に対する期待でもある。その感情は、幼い頃に憧れたヒーローたちに抱く感覚に似ているような気がする。普通の人間にはできないことをあっさりと成し遂げるその姿は、今の人工知能に重なるものがある。
人工知能によって多くの人が職を失うとか、人工知能は人間の敵になるとか、恐れを抱いている人も多い。しかしそんなものは杞憂に過ぎないだろう。過去の産業革命時のラッダイト運動(機械破壊運動)のようなものだと思う。実際いろいろな課題は出てくるだろうが、同時に対策も出てくるだろう。
総じてよくある話になってしまったが、今日はこの辺で。
日経ビジネスオンラインの釣りタイトルを見て
トヨタがAIによる自動運転で、NVIDIAという半導体メーカーと提携した。NVIDIAは半導体メーカーとしては世界的に有名であり、最近は様々な場面で名前が挙がっている会社だ。
日経ビジネスオンラインの釣りタイトル
日経ビジネスオンラインがこの提携をニュースにしたのだが、その記事のタイトルは「トヨタが頼った謎のAI半導体メーカー」であった。
詳報:トヨタが頼った謎のAI半導体メーカー:日経ビジネスオンライン
NVIDIA広報「釣りタイトルだけど...」 日経ビジネスに"謎の半導体メーカー"と扱われた件でコメント
記者はこの会社のことを十分に知っていたにも関わらず、このような表現を使ったという。いわゆる釣りタイトルである。悪意は感じられないが、技術に敏感な人やNVIDIA側からすれば違和感を覚えるところだ。
目を引くタイトルを付ける常識
僕がブログを書く上ではあまり気にしないが、「目を引くタイトルをつける」というのはインターネットでは基本になっている。新聞とは違い、ネットではリンクを選択されて、記事が表示されないと読んでもらえないし、シェアもされないからだ。
上で挙げた例はまだマシだが、明らかに嘘っぽいタイトルもよく見かける。ジャンルによっては、広告収入狙いの記事もひと目でわかる。そのような記事に出会うと、これだからインターネットはうさんくさく見えちゃうんだよなぁ…と思わざるを得ない。
ルール内であれば何をしてもいいだろう、と言われると確かにそうなのだが、このような釣りタイトルは、人として「これはしない方がいい」という分類に入るのではないだろうか。
記事の中身の素晴らしさの判定は難しいのか
とは言えその線引きは人によるだろうし、利益を求める人間がそういう選択をしてしまうのは、致し方ないとも言える。そういう意味では、わざわざ釣りタイトルを付けたくなるような仕組みがよくないのだろう。
タイトルをクリックして中身を読んだときに、「騙された」と思ったのか「素晴らしい内容だった」と思ったのかがわからない以上、それは避けられないのかもしれない。しかしこのままではずっとこんな状態が続くことになる。
Googleが長年かけても今の状態なのだから、相当難しい問題なのだろう。しかし人間と同じ常識を持ったAIが、「この記事はうさんくさいな」なんて考えられるようになったら解決されていくはずである。そろそろそんな時代が来ることを祈るばかりだ。
絵本を無料公開する理由
キングコングの西野亮廣さんが、絵本を無料公開してクリエイターたちに非難されているようだ。炎上に加わるようで話題にするのもやや気が引けるが、僕も軽く乗っかってみようと思う。
キンコン西野 絵本無料公開反対のクリエイターを批判「実力を上げろ」 (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
絵本を無料公開する理由
上の記事から、一連の流れをざっくりまとめた部分を抜粋してみる。
西野は今年1月、小学生の「2000円では買えない」との意見を聞き入れ、ネット上で同作の無料公開に踏み切った。その後、「アニメクリエーターの収入が奪われる」などの反対意見が続出。炎上状態に陥った。
「自分の同級生はもう母親になっている人が多いんですが、母親は時間にもお金にも余裕がない。だから『外れ』が許されないんです」とし、「本屋で立ち読みしてから買い与えるといっても、その時間もない。だから、スマホとかで立ち読みできるように、無料公開にしたんです」と真意を明かした。
以前の彼のツイートか何かで「お金がなくて買えない子供のために」的な内容を読んだ記憶があるので、上のコメントには少し違和感を抱いたが、それは一旦置いておこう。
抜粋部分を更にまとめると、「無料にした理由は、買う前に中身をスマホで確認できるようにするため」ということになる。立ち読みする暇もない人が、わざわざネットで事前に検索して確認するのかは怪しいが、これも一旦そういうことにしておく。
絵本は無料化しても購入される
最近は様々な場面で当然のように使われているこの「無料お試し」方式だが、「絵本」というジャンルではあまり使われていなかったため、こうして非難されているのだと思われる。そんな無料化反対の声に対する西野さんの意見として、こう書かれている。
「強度に自信があるなら、無料公開をするのは有効。無料公開して売れなくなるのは、一定レベル以下の人です」と反対派をバッサリ斬り捨てた。
「売れなくなるのは、一定レベル以下の人」という表現は強めだが、間違ってはいないだろう。絵本は「子供への読み聞かせ」という用途上、手元に本がなければ意味がないので、内容が良ければ購入されるはずである。
情報量の差は良いものを淘汰する
ところで、「情報の非対称性」という言葉がある。買い手と売り手では、商品に対する情報に差異があるという性質だ。
よく聞くのが中古車の例だ。あなたが車を売るとする。大事に手入れして使ってきた車なので、高値で売れると信じている。しかし買い手からすれば、どのように扱われてきたのかはわからない。過去に他の人から買い取ったものがイマイチだったとしたら、簡単に高値では買い取れない。
想定よりも安い見積り額を言い渡されたあなたは、結果的に売るのをやめるだろう。そんなケースが積み重なると、結果的に良いものは市場に回らなくなる。質の悪いものばかりが増えていく。
これは、僕らが買い手の場合も同様だ。品質が不明確なものに対して、高額を出す気にはなれない。売り手は、質の良いものを売っても値段相応で買ってもらえないから、質の悪いものを売るようになる。こうして、買い手と売り手の持つ情報が違うと、世の中から良いものが淘汰されてしまうのである。
情報の開示で悪いものが売れなくなる
一方で、買い手がしっかり情報を持っていれば、適切な価格が設定される。良いものは高く、悪いものは安くなる。
売り手からの情報開示や無料体験、ユーザーレビューなどで、買い手にしっかり情報が渡っている製品やサービスは、適切な価格になるわけだ。すると、質が悪いものは売れにくくなる。大抵の商品はこうなっている。
今回の絵本無料化の件も、無料化することで、買い手に十分な情報が行き渡り、値段にそぐわないレベルのものは売れなくなる。そういう意味では間違っていないのだろう。…とは言え、絵本の場合はネットで公開しなくても立ち読みできるので、話題作りでしかない気もするが。
そういえば、書いていて思ったが、ブラック企業なんかも同じ原理なのかもしれない。もっと情報が開示され、雇う側と雇われる側が対等になれば、わざわざブラック企業に行く人間はいなくなり、それも淘汰されていくのだろうか。
インスタグラムが及ぼす悪影響
イギリスのある調査で、「若者の心の健康に最悪」なSNSはインスタグラムであることが判明したという。
「若者の心の健康に最悪」なSNSはインスタグラム=英調査 - BBCニュース
最悪なSNSで生まれる悪影響
タイトルの「最悪」という表現は大げさにも思えるが、実際これらのSNSの中で最悪だったことは事実である。記事の一部を抜粋してみる。
YouTube、インスタグラム、スナップチャット、フェイスブック、ツイッターを比較した際、インスタグラムが最も悪い影響を与えることが分かった
インスタグラムが若者の心に与える不安感や孤独感、いじめ、外見への劣等感など否定的な影響が、他のSNSよりも高かったという。
以前、Facebookを使うと幸福度が下がるという記事もあった。今回の調査は、Instagramはさらにその下を行くという結果のようだ。写真ベースのInstagramの方が、視覚情報から他人の幸せ感がより伝わってしまい、孤独感や劣等感などが生まれたりするのかもしれない。
みんな頑張ってリア充らしさを演出しているのに、それが他人へ悪影響を及ぼしているとは、なんとも悲しい事実である。
SNSで幸せを感じられるのか
今やスマホでいつでも誰とでも繋がりを持てるようになり、便利になったはずなのに、逆に悪影響が生まれている。1人では寂しいから誰かを求めて繋がったのに、より寂しくなるという皮肉な状況。人の感情は複雑である。
ではSNSを通じて少しでも幸せになるにはどうしたらいいのだろうか。極端に考えれば、幸福度が下がるFacebookやInstagramはやめたほうがいい、ということになる。他人に対する羨ましさや妬ましさを生まないように。
逆にやめずに、例えば不幸そうな人をフォローすれば優越感で幸せになれるのかというと、それも違う気がする。不幸そうなおっさんの顔写真などを見ても、優越感どころか不快感でしかない。暗い人を見ていたらこっちも暗くなるし、みんな他人の不幸話を聞くほど暇ではない。
自分の居場所を求めて
結局のところ他人のプライベートなんて、わざわざ定期的に見たところで、良いことがないのだ。会った時の話のネタとして聞くぐらいがちょうどいい。それに気づき出した人たちが「Facebook離れ」を生み出したのかもしれない。そのうち「インスタ離れ」も始まるのだろう。
ただ、コミュニケーションという意味ではSNSは価値がある。「誰かと繋がっている」とか「自分の居場所がある」と感じることで人は幸せになるものだ。
とは言え、それも今は気休め程度でしかないとも言える。リアルとネットでは、やはり繋がりの強さの差がまだまだ大きい。ネットでは多くの人と繋がっているが、普通に会って喋るのが本当の友達だと考える人も多い。
FacebookはVR(仮想現実)にも最近力を入れているというが、きっとそのあたりの壁をぶち壊しに来るのだろう。本来技術は、人の生活をより便利にするものだ。未来の技術は僕らの生活をどう変えていくのか、楽しみながら見ていきたい。
もう見逃し三振は許されない
京都大学の入学式で読まれた式辞の中に、ボブディランの楽曲の歌詞が含まれており、JASRACが著作権料を請求してきたという。ホームページに式辞全文が載っていたためチェックが入ったようだが、さすがに笑ってしまった。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6240224
式辞も見逃さないJASRACの仕事ぶり
そういえば、先日はヤマハの音楽教室の件でも似たような話があった。音楽教室は歌を歌っているのでまだわかるが、式辞の引用にまで請求するその姿勢は、本当に適切なのだろうか。
請求対象となる基準を超えたのだろうが、人間的な目線で見ればさすがに厳しすぎる気がする。そのうち鼻歌を口ずさんだ途端に、道端からJASRACが出てくるのではないかと恐ろしくなる。
JASRACに対してとやかく言うコメントは飽和しているのでこの辺にしておくとして、僕は京大生ではないが、せっかくなのでその引用を使った式辞の該当箇所を読んでみて少し思ったところを書いてみよう。
誤りから目をそらす人たち
これがその式辞の書き起こしである。著作権料を請求されたくないので歌詞は書かないが、この式辞のコメントを引用しておくと、こんなことが語られている。
「答えは本にも載っていないし、テレビの知識人の討論でも得られない。風の中にあって、それが地上に落ちてきても、誰もつかもうとしないから、また飛んでいってしまう」という気持ちを表したものなのです。
そう、この歌は、誤りを知っていながら、その誤りから目をそらす人を強く非難しているのです。
誤りを知っていながら、目をそらす。やらない方がいいと思いつつ、誰でも1度や2度は経験があるだろう。目先の利益や安心を優先してしまう人間の性質上、避けることができない課題である。
それは政治家も、言ってしまえば国も同じで、様々なことを見逃してきた。例えば今の日本の制度は、現代に合っていない。昭和の時代を対象にした制度が今も変わらず残っており、それが若者や貧困層を苦しめている。
もう見逃し三振は許されない
昨日、経産省からこんな資料が発表された。ネットでも結構注目されているようだ。
上で挙げたような現状の課題を整理した資料である。これこそ、誤りから目をそらしてきた結果とも言える。最後の「2度目の見逃し三振はもう許されない」という言葉が、それを強く物語っている。
「何を今更」とか「対応が遅い」のような声もあるが、こうして課題を可視化してより多くの人に認識させることが、第一のステップなのだろう。そういう意味では大切なことだ。ちなみに会議の全資料はこちら。
余談
完全に余談だが、僕はこのインターネットで誰もが繋がる時代なら、一般人でも頭のいい人なら政治家並みの影響力が出せるのではないかという気がしている。
わかりやすい資料や方針や実現案があって、多くの人が賛同すれば、政治家も動かざるを得ないのではないか。それができれば、こんなに課題への対応が遅くなることもないのではないか。以前に「保育園落ちた」うんぬんが取り上げられたように(あれは頭の良し悪しではなかったが)。
そうして僕は少しでも早くベーシックインカムが実現されることを祈るばかりだ。あぁ働きたくない。働きたくないのだ。頭のいい人だれかなんとかしておくれ。
もう子供たちは英語を学ばなくていい
あなたは学生時代、きっと英語の勉強をしてきただろう。もしかすると、今も勉強しているかもしれない。僕も受験のときにそれなりに勉強した。しかし英語を学生が勉強する時代も、もうすぐ終わりが来るだろう。
Google翻訳サービスが月間利用者が5億人超え
Googleの翻訳サービスの月間利用者数が、世界で5億人を超えたそうだ。やはり昨今の人工知能の活用による精度向上は凄まじい。
人工知能で翻訳精度が向上 グーグル、月間利用者5億人 - 共同通信 47NEWS
文学作品のように難易度の高い文章についても、英語から日本語に、より自然に翻訳できるようになったとGoogleがアピールしている。
日本でも昨年末ぐらいに、制度が飛躍的に向上したと盛り上がっていた。カメラをかざせば写った言葉が即座に翻訳されるアプリも話題になった。
とは言え、日本人利用者のコメントを読むと「英語ができる人のサポートツールにはなるが、英語できない人が英語できる人に変身するツールにはなっていない」といった感想もあり、まだ完璧とは言い難いようだ。
翻訳精度は今後も向上し続ける
しかし月間利用者5億という数字は、生半可な精度で出せるものではない。ある程度の信頼や実績がないと難しいだろう。日本の人口の約4倍にもなる人々が使っているのだから。
どうやら日本語の精度はまだイマイチだが、ヨーロッパの各主要言語では、ほぼ完璧との声もある。
人工知能はインプットさえ与えてしまえば賢くなる。そしてそのインプットが増える度に、精度を上げていく。そのうち、完璧と呼べるものが出来上がることはもはや必然である。
もはや学校で英語を学ぶことに意味はない
もちろん、人が他国の言語を学ぶことは大切だし、機械の翻訳が間違っていたら直せるのが望ましい。しかし、学生時代に英語を学んだ人たちに聞いてみたいのだが、どれほど英語が聞けるように、喋れるようになっただろうか。
僕は以前、大学で外国人学生に教室の場所を聞かれ、適切な文章が思いつかずにジェスチャーを多用して切り抜けてしまった覚えがある。中学で学んだ英語で何とかなるはずなのだが、やはり日々使っていないと出てこないものだと痛感した。
上の例は低レベルで申し訳ないが、大抵の人間は追い込まれないと頑張らない。英語を使わなくて生きていけるのに、学んだところで大して身に付かないのだ。特に日本人は歴史的にもその傾向が強いと言われている。
中途半端に学校で英語を学ぶぐらいなら他のことに時間を割いて、英語を使いたいときは翻訳サービスを使った方が効率がいい。自分で聞きたい、喋りたいと思った人は、個人で真剣に学べばいい。全員一律で、学校で学ぶことに意味はない。
機械では伝わらないものもある
コミュニケーションは人間と人間がすべきだ、と言う意見もある。しかしそのような対立意見は、技術が進歩するときは必ず付いて回る。紙オムツが出てきたときに、おばあちゃんたちが「使い捨てはもったいない。手洗いだから愛情が湧く」と反対意見が上がったというが、それに近いように感じる。
もちろん機械では伝わらない部分もある。ちょっとした雰囲気や機微のようなものは伝えにくいだろう。でもそのデメリットは、翻訳サービスの便利さには敵わないだろう。翻訳サービスを使いながら、いかにスムーズなコミュニケーションができるか。それが今後の課題になっていくはずだ。
ところであまりこの手の意見をネットや本で読むことがないのだが、なぜだろうか。英語の教材で成り立つビジネスがあり過ぎるがゆえに、メディアが言及できないのだろうか。
一般人への取材は無償で当然?
サイバー攻撃の取材をしたいと言う報道関係の人たちが、報酬を払う気がないことに対して議論しているまとめを見つけた。
取材費を支払いたくない(自称)記者「では、あなたは他人の力を借りるときには金銭を支払うべきだと思っているのですか?」 - Togetterまとめ
無償で取材しようとする報道
答える側にメリットがないため、報道側が責められそうな話ではあるが、コメントを見ると「一般人の情報なので無償でも仕方ないのでは?」という意見が多く上がっている。
個人的には、お願いする側は、何らかの報酬は用意しておくべきだと思う。別にお金でなくても、よくある番組特製のグッズだとか、何かのチケットだとか、いくつか選択肢を用意して、取材を受ける人に選ばせてあげれば納得しやすいだろう。
一般人の情報はタダで当然?
しかし多くの人が「一般人だから無償でいいんじゃね?」と考えていることが、個人的には興味深い。みんな「一般人の情報には、お金を払うほどの価値はない」と考えているのである。
さらに、情報は新鮮であったり珍しかったりすると、多くの人が興味を持ってくれやすいものだが、今回のサイバー攻撃の情報は、まさにその新鮮かつ珍しい情報である。ネットで調べても、他の人に聞いても見つからない情報だ。
にも関わらず、一般人であるが故に、お金を払うほどの価値がないと思われている。これでは、僕ら一般人がいくら頑張ったところで、情報として価値をもたせるのは不可能になってしまう。特殊能力でも開花させれば別かも知れないが、それはもはや一般人ではない。
報酬があると偽造される
もう1つ、コメントの中で多かったものに、「取材にお金を払ったら偽造する人が出てくる」というものがあった。これも確かにそうだ。お金が絡んでくると、嘘をつく人はいる。嘘を見破る仕組みがあればよいのだが、それも難しいだろう。
今のWebも、広告収入というインセンティブを求めてブログやサイトを運営する人は多い。さすがに嘘をつく人は多くないと信じたいが、コピペを巧みに使って記事を量産するような人がいるのも事実であり、偽造と同じようなものだ。
一般人の情報に価値がないと思われているが故に、そうして広告に頼らざるを得ないという部分もあるかもしれない。僕自身も、嘘は書いていないが、日々のカフェ代ぐらいは広告で稼いでいるので何とも言えない。
一般人が、お金を払ってもらうには
先日も書いたが、僕はいつか「お金を払ってでも読みたいと思ってくれるもの」を書きたいと思っている。そういう意味では、「一般人」という枠組みでは難しいのだと痛感する。
「こいつは一般人とは違うな」と思わせる何か。個人をアピールするにも様々なジャンルがあると思うが、どうやって自分がそれを出していくか見極めることが第一なのだろう。
答えがないものは苦手ですか?
将棋の世界を震撼させている中学生がいる。史上最年少14歳2か月でプロ棋士になった藤井聡太さんだ。現在、デビュー後の公式戦で17連勝中だという。今日はそんなプロのおっさんたちを蹴散らしている最強中学生の話から考えたことをお伝えする。
答えがないものを苦手とする人
これを書くきっかけは、先日のIPPONグランプリのオープニングで、松本人志が彼のことを話題にしたことだ。あるインタビューで彼が苦手な科目を聞かれた際、美術が苦手だと答えたそうだ。その理由が「答えがないから」だという。
確かに美術には答えがない。僕の周りでも数学が好きな人などはよく、この「答えがない」ものが苦手だと言っていた。このような人は、特に理系には割と多い。
それは答えが人によって違うもの
数学の試験では、答えがある。回答が「1」なのか「2」なのかで正解と不正解が明確に分かれる。美術ではそれはない。つまり、正解かどうかは作品を見た人の感性に委ねられる。恐らくそれが、彼らが言う「答えがない」の指すところだと思われる。
つまり、人によって答えが違うもの。将棋で言う「勝利」やビジネスでいう「利益(お金)」のような、誰にとっても同じ指標が、美術にはない。答えというより、「ゴールが不明確」と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
そのようにゴールが不明確なものは、見る人の経験や知識、環境などによって答えが変化するため、やっかいではある。しかし、それが苦手というのも、やや不安に感じる。というのも、それらは人生で普通に登場してくるからだ。
人生だって、ゴールは不明確
例えば恋愛などもそうだろう。人の好みは千差万別だし、相手にとっての完璧な正解になることなんてできない。それでも好きな人と一緒になりたいという自分の思いを成就させるために、駆け引きの中で試行錯誤するわけだ。
例え付き合うことができたとしても、それが絶対の正解なのかどうかはわからない。あの時あの人を選んでいたら、今頃どんな人生だったのか。あの時告白していたら、未来は違ったかもしれない。もっと幸せになっていたかもしれないし、悲しい結末が待っていたかもしれない。
いつまで経っても、答えなんて誰にもわからないのだ。だから、多くの人と出会い、別れ、最も素敵だと思える人と一緒になるために、動き続けるしかない。
恋愛に加え、もちろん美術に近い音楽などのアートもそうだし、長い目で見れば人生そのものだって、ゴールは不明確である。何のために生きるのか?それは自分自身で見出すしかないし、日々変わっていくものかもしれない。
僕らが磨くべき感性とは
これから先、多くの仕事が機械に取って代わられるという。そんな時代が来たとき、僕ら人間が自信を持ってできることは何か。機械には任せられない、人間らしいものは何か。それは、このようなゴールが不明確なものなのではないだろうか。
人間にしかできないアーティスティックな部分は、これからますます重要になってくるだろう。現代で言えば、先日「君の名は。」が人気になったが、これも素晴らしい美術作品の1つだろうし、この映画が機械に作れるようになるとは、今はまだ思えない。
ゴールが不明確なものは、難しい。しかし、不明確だからこそ、自分の感性を信じて、前に進み続けるしかない。僕を含め、人の目ばかり気にしている日本人には難しい部分かもしれないが、きっとこれから誰もが強く意識しだすのだろう。