人生のメモ

琴線に触れた小さなことを、文章に。

最大公約数には価値がない

NewsPicksというアプリを使っている人はいるだろうか。このアプリでは、様々なジャンルのニュースや記事に対し、幅広い業種の人が、実名でコメントを書き込む。

専門家や有識者の多様な意見が読める上に、モラルを欠いた書き込みも少なく、僕が重宝しているアプリの1つだ。

日経新聞もテレビもつまらない

その中で個人的に面白いなと思う表現があった。堀江貴文氏と落合陽一氏の対談の記事だ。2人ともテクノロジーに精通した有名人であり、個人的にも彼らの言動にはかなり注目している。その対談の中で、こんな言葉が出た。

最大公約数には価値がない。

これだけ読んでも意味がわからないと思うので簡単に具体例で補足しておく。

彼らが言うには、日経新聞の記事の解説などを見ていても、当たり障りのないことしか書いてなくてつまらない、とのこと。テレビもメディアとして中立であろうとし、ポジショントークなども行われるため、つまらないという。

他にも例を出しているが、そのような事実をまとめて、「最大公約数には価値がない」と表現したのだ。誰もが受け入れられるような平均的な意見には、意味がない。言い方は厳しいが、これは普段から情報を発信しているすべての人が意識すべきだと思う。

誰かの怒りを恐れていないか

しかしながら、それは簡単なことではない。ブログを書いている人ならわかると思うが、せっかく書くなら多くの人に読んでほしい。できれば人気者になりたい。これは自然な感情だろう。

そして人気者になろうとすると、多くの人から嫌われない方を選んでしまう。結果的に、尖った意見は言えなくなる。それは上で言う「最大公約数」を選んでいるということだ。

つまり、誰にも嫌われないように、怒られないように気をつけて書いた内容は、結局誰の心にも刺さらない、価値のないものになる。人気を集めようとして、結果的に人気を得られなくなってしまうわけだ。

実生活とメディアでは、求めるものが違う

当たり障りのないことしか書けない人は、まずは「多くの人に好かれたい、嫌われたくない」という考え方そのものを改めたほうが良いのだろう。誰かの人気者になるには、他の誰かから嫌われる覚悟が要るのである。

僕自身、あまり尖った意見をズバズバ言う人と関わるのはあまり好きではなかったりするし、そういう人は多い。しかしそれはあくまで実生活で自分と直接関わる人の場合である。

そうではない、自分とは関係のないメディアの中に対しては、多くの人が、遠慮のない尖った意見を求める。

もちろん、そのような意見には、裏付けされる知識や理解が必要だ。また、説得力を出すには、ある程度の成果も必要かもしれない。日々の積み重ねがものを言うのだろう。それが無理なら、高いユーモア性や、情報の新鮮さなど、別の部分で勝負していけばいい。

僕もたまには、公約数から外れた記事を思いっきり書いてみようと思う。