人生のメモ

琴線に触れた小さなことを、文章に。

教育することを忘れてしまった教師

人はそれぞれ、みんな違う。顔も手足も肌の色も、性格も感覚も考え方も、好きな異性のタイプも嫌いな食べ物も全て、完全に同じ人なんてどこにもいない。そんなことは誰もが知っているし、それが当たり前だと思っている。それらの違いは「個性」と呼ばれる。

個性を認めない教師

しかし当たり前なはずなのに、世の中では「皆と同じであること」を求められることも少なくない。このツイートからも、学校における個性が許されない一面が垣間見える。

誰もが違う人間なのだから、各々が適した場所が違うのは当然だ。学校に行きたくない子がいるのも当然だし、そうであれば他の場所で人生を楽しめばいい。何につけても、生きていく上で1つの選択肢に縛られる必要はないし、そんな場面に出くわしたら「何かがおかしい」と感じるべきである。

「学校に行けない」を乗り越えた貴重な実体験

教師というのは、子供の貴重な時間を託される仕事である。つまりは日本の未来を担っているわけだ。正直言って、非常に重い責任がある。個人的には、民間企業の一社員と比べても、よっぽど重要な役目だと思う。それなのに、1人の生徒が必死に乗り越えてきた苦しい思いや行動を認めず、「学校に行けない」ということだけで作文を却下するような教師がいるというのは、本当に嘆くべき事態である。

むしろこれほど素晴らしい作文はなかなかないと思う。自分が周囲に適応できないときに、自分に適した場所を見つけ出し楽しみ、失敗を恐れず挑戦し続け、ダメでも別の方法を探し前進する。人生で大切なことを凝縮し、実体験になぞらえて簡潔に語られている。教育という観点でも、他の生徒にも読んでもらうべき内容だろうし、同じように悩む子どもたちの勇気にもなるだろう。

教師は、教育をする仕事

教師の言い分はわからないので想像で語るのは忍びないが、単純に考えると、自分の生徒が学校に通えなかったことが悲しかったのかもしれない。それを形に残したくなかったのかもしれない。でもこの教師には、自分の本当の役目を改めて考えてほしいところである。教師の仕事は教育なのだ。そして教育とは、学校に通わせることではないし、子供たち全員に同じような生き方をさせることでもない。

少子化が進む社会、子供の教育の価値はどんどん高まるだろう。この作文を迷いなく文集に載せて、彼女の個性と生き方を認め称賛することのできるような教師が、今後1人でも多く出てきてほしいと切に願う。