人生のメモ

琴線に触れた小さなことを、文章に。

カフェで怒られる学生を見て

久々にドトールでコーヒーを飲んでいる。目の前には「勉強等の長時間のご利用は、他のお客様のご迷惑になりますので、ご遠慮ください。」という注意書きがある。注意書きの下に、ペンとノートの絵と禁止マークがデカデカと貼られている。

勉強していると怒られるドトール

これが店のいたる所にあるのだが、何とも冷たい言いっぷりだとは思わないだろうか。客に対して、回転率を上げるために早く席を開けろというのだ。気持ちはわかるが、正直者にも程がある。正直な可愛い女性は嫌いじゃないが、正直な口うるさいドトールは嫌いだ。

以前、ドトールの店員が、勉強中の学生に注意している光景を何度か見たことがある。不満そうに席を立つ学生と店員の間には、明らかに深い溝が生まれていた。それはもう、グランドキャニオンを彷彿とさせる溝だった。見たことないけど。その店員は、「明らかに勉強しているとわかる人」を対象にしているようだった。

勉強と勉強以外の境界とは

静かに勉強しているだけで長居するなと追い出され、隣で大声で長話しているおばはん軍団が無罪放免では、学生が納得いかないのも当然である。冤罪をくらった気分になるだろう。「この人勉強してます!」も「この人痴漢してます!」も、多感な高校生にとっては同じなのだ。知らんけど。

ノートとペンを持っていれば注意対象になるのだろうか。ではノートを読んでいるだけではどうか。参考書を読んでいるだけでは?スマホでスタディサプリの動画を見ているのは?友達と単語クイズを出し合うのは?「勉強」を基準としているのであれば、それは曖昧すぎる。

大体、イヤホンさえつけていれば、スマホで授業動画を見るのもエロ動画を見るのも同じである。他人から見れば、参考書を見るのも官能小説を読むのも同じなのだ。そういえば以前にカフェでグラビア動画をジッと見続けているおじいちゃんを見たが、家に居場所がないのだろうか、と少し切なくなった。関係ないけど。

納得できる説明ができるのか

ドトール側から見れば恐らく「回転率を上げる」とか「座れない客からのクレームを減らす」といった目的があるのだろうが、どちらも勉強に限定する理由はない。勉強はカフェ以外でもできる、という主張であれば、勉強以外も大抵当てはまる。

このあたりを、ドトールはどう考えているのだろうか。軽く検索しても公式なコメントがなかったので、少し疑問に思った。個人的にはカフェで勉強しないので問題ないが、注意される人たちが納得できるような説明をしてあげてほしいものだ。