人生のメモ

琴線に触れた小さなことを、文章に。

ネットで最高の結婚相手が見つかる時代

「楽天オーネット」のCMが流れていた。いわゆる婚活用のマッチングサービスだ。希望条件を登録しておけば、そのデータに基づいて自分に合いそうな人を紹介してくれるというものである。CMでは、見知らぬ男女が様々な項目でマッチして結ばれる様子が描かれていた。

一般的な出会いと選択

このようなサービスを使わない場合、付き合ったり結婚する相手を、様々なデータを整理してマッチングさせて決める人は少ないだろう。

周りを見ても、実生活の中で出会った異性の中から、気になる人とコミュニケーションしつつ、感覚的に楽しく過ごせる人と一緒になることが多い。

もちろん相手とのコミュニケーションの中で得た情報を元にして決めるとは思うが、1つ1つの条件を可視化したり比較したりまではしていない。条件を事細かくメモってチェックしている人がいたら少し怖い。

つまりは、実生活の中で、そして自分の感覚で選ぶのである。

データによるマッチング

一方、上で紹介したような婚活サービスを使うと、登録されたデータベースから相手を探す。候補は登録者全員であり、その中から適した人が選ばれる。

そして、全てのデータが可視化される。そのデータは他の登録者と比較され、論理的に最も自分に適した相手が選出される。多少は人間が介在するのだろうが、基本はコンピュータが条件を見て選ぶだろう。

加えて、最近は人工知能の発展により、過去の他者のマッチング結果も活かされる。「このデータの人とこのデータの人は合いやすい」といった統計情報も参考に選出される。その精度は、回数を重ねるごとに上がっていく。

つまり、婚活をしている登録者全員の中から、論理的に自分とマッチしそうな人を選ぶことになる。これは、実生活の中で感覚で選ぶよりも、間口が広く、確実な選び方に思われる。

もし、完璧にマッチする人がいたら

そう考えると、後者のほうが圧倒的にメリットがある気がしてくる。魅力的な人は婚活サービスなど使わずに実生活で相手を見つけてしまうのが現状だが、実際はその人にも、実は他に適した人がいる可能性が高い。

これからますますIoTが発展することで、個人から収集できるデータは増えていく。それらもマッチングの参考データに加われば、実生活では出会えないような自分にピッタリの人に出会える世界が来るだろう。

そうして今後、「マッチングサービスを使うといい出会いがたくさんある」というイメージが付いたら、誰もがそれを使い出すと思う。

10数年前は、「ネットの出会いなんて怖い…」と言われていたが、今ではSNSを通じて誰でも容易に出会える時代になった。その流れは、これから更に大きくなり、僕らの生活に入り組んでくるのではないだろうか。

使える人、作れる人

最近、このブログを読者登録してくれる人が増えてきた。ありがたいことだ。せっかくなので読者の方々を思いっきり楽しませたいところなのだが、社畜リーマンにできる話なんてたかが知れている。

もし僕が美人女子大生ならお詫びにおっぱいでもお見せしてあげるのだが、残念ながらそれもない。おっさんですまない。来世は頑張る。

個性が消えたレイアウトたち

そんな感謝も含め、読者登録してくれる人たちをメインに、いろんなブログを読んでみた。趣味に走る人、日常を綴る人、ブログを語る人、いろんな人がいて面白い。

しかし当然ながら「はてなブログ」という枠組みでは同じである。そのため、レイアウトとしては似ているものが多い。このブログなんてほとんどデフォルトだから、他の人とかぶりまくっている。シンプルで見やすいとは思うが、個性はない。

はてなブログだけでなく、AmebaやLivedoorなどいくつかブログサービスはあるが、どれも細かなカスタマイズを想定された作りにはなっていない。テーマを選んで、多少のレイアウト変更はできるものの、あくまで用意されたコンテンツを並べる程度だ。

1からモノを作れる人の強さ

今でこそ、そのようなブログサービスが一般的になったが、インターネットが流行り始めた頃は当然そんなものはなく、ウェブサイトはどれも管理者によって1から作られていた。サーバにお手製のファイルを配置するのである。

色も形も大きさも、全てが作り手の自由で、良くも悪くも個性に溢れていた。そこから、HTMLだけでなくCSSやJavaScriptなどを用いた様々な表現方法が発展し、ウェブ上ではさらに様々なことができるようになった。

しかし今、ブログを始める人の多くは、それらの仕組みを学ばずに、ブログサービスを使う。というより、学ばなくてよくなった、と言った方が正しいだろう。自分で作るよりブログサービスを使う方が簡単だし、そちらを選択する人が多いのは当然である。

けれども、便利なサービスに乗っかるだけでは、「あれをこうしたい」という細かい部分に手が届かず、似たりよったりになってしまう。1からサイトを作れる人の表現力には到底及ばない。

使える人になるか、作れる人になるか

ウェブサイトを例に取ったが、テクノロジーは大抵似たような流れを取る。新しい技術が出てきては、先駆者が試行錯誤を重ねて進化し、最終的には何も知らないユーザーでも簡単に使えるような仕組みが提供される。

僕らが気軽に手にしているスマホもそうである。元は専門家が研究室で難解なコマンドを打って動かしていたコンピュータが、改良に改良を重ねられ、PCという一般人でも使える汎用的な形になり、より簡単に扱えるスマホに進化した。

大小はあるが、テクノロジーとはそういうものであり、そして1からモノを作れる人は、そのテクノロジーが続く間は活躍できる。一般人では届かない、かゆいところに手が届くためだ。

PCやスマホのようなハードの世界で個人が何かを作るのは難しいが、先のHTMLなどを含むソフト側であれば、ある程度の業界標準が整ってしまえば、個人でも様々なことが実現できる。誰かが提供してくれたサービスを使うのではなく、自分で作れるようになることで、できなかったことができるようになる。

始めるなら、今だ

とは言え、今更HTMLを学ぼうとかそういう話をしたいわけではなく、 今僕が考えているのは、次の時代の準備をするなら、今が良いタイミングなのではないかということだ。

今、第4次産業革命とも言われるように、様々なところで変化が起きている。例えばAI(人工知能)は、これから人々の生活には欠かせなくなると言われている。一方で、まだ一般人が簡単に使えるようなAIサービスが提供されるところまでは至っていない。

しかしながら、ウェブや書籍を見れば、人工知能の情報はいくらでも出てきている。僕が数年前にAIが気になりだした頃は、本屋に関連書籍が数冊あるかないかだったが、今やどの書店にも数十冊単位で置いてある。個人が触れるレベルまで来ている証拠だろう。

今のうちに勉強して、何かを作れる人になっておけば、きっとこの先大きく活躍できる。始めるなら、今だろう。

最大公約数には価値がない

NewsPicksというアプリを使っている人はいるだろうか。このアプリでは、様々なジャンルのニュースや記事に対し、幅広い業種の人が、実名でコメントを書き込む。

専門家や有識者の多様な意見が読める上に、モラルを欠いた書き込みも少なく、僕が重宝しているアプリの1つだ。

日経新聞もテレビもつまらない

その中で個人的に面白いなと思う表現があった。堀江貴文氏と落合陽一氏の対談の記事だ。2人ともテクノロジーに精通した有名人であり、個人的にも彼らの言動にはかなり注目している。その対談の中で、こんな言葉が出た。

最大公約数には価値がない。

これだけ読んでも意味がわからないと思うので簡単に具体例で補足しておく。

彼らが言うには、日経新聞の記事の解説などを見ていても、当たり障りのないことしか書いてなくてつまらない、とのこと。テレビもメディアとして中立であろうとし、ポジショントークなども行われるため、つまらないという。

他にも例を出しているが、そのような事実をまとめて、「最大公約数には価値がない」と表現したのだ。誰もが受け入れられるような平均的な意見には、意味がない。言い方は厳しいが、これは普段から情報を発信しているすべての人が意識すべきだと思う。

誰かの怒りを恐れていないか

しかしながら、それは簡単なことではない。ブログを書いている人ならわかると思うが、せっかく書くなら多くの人に読んでほしい。できれば人気者になりたい。これは自然な感情だろう。

そして人気者になろうとすると、多くの人から嫌われない方を選んでしまう。結果的に、尖った意見は言えなくなる。それは上で言う「最大公約数」を選んでいるということだ。

つまり、誰にも嫌われないように、怒られないように気をつけて書いた内容は、結局誰の心にも刺さらない、価値のないものになる。人気を集めようとして、結果的に人気を得られなくなってしまうわけだ。

実生活とメディアでは、求めるものが違う

当たり障りのないことしか書けない人は、まずは「多くの人に好かれたい、嫌われたくない」という考え方そのものを改めたほうが良いのだろう。誰かの人気者になるには、他の誰かから嫌われる覚悟が要るのである。

僕自身、あまり尖った意見をズバズバ言う人と関わるのはあまり好きではなかったりするし、そういう人は多い。しかしそれはあくまで実生活で自分と直接関わる人の場合である。

そうではない、自分とは関係のないメディアの中に対しては、多くの人が、遠慮のない尖った意見を求める。

もちろん、そのような意見には、裏付けされる知識や理解が必要だ。また、説得力を出すには、ある程度の成果も必要かもしれない。日々の積み重ねがものを言うのだろう。それが無理なら、高いユーモア性や、情報の新鮮さなど、別の部分で勝負していけばいい。

僕もたまには、公約数から外れた記事を思いっきり書いてみようと思う。

明るいニュースはないのかい

長い連休が明けた。ギリギリまで現実逃避しながらGW最後の夜は乗り越えたものの、やはり朝になってしまうと現実がのしかかる。僕はサラリーマンであり、家族を支える立場であり、働かなければ生きていけないという現実を。

ニュースアプリを見て感じた不満

と言いながらもまだブログを書くことで、ささやかな逃避を続けている。連休明けということで、明るい話題がいい。何がいいだろうか。とりあえずネットニュースを眺めてみる。

こうしてみると、ハッピーなニュースはほとんど無いということに気づく。これ、どうなんだろうか。やれ教師に休憩がないだの、アパートが燃えただの、誰かが誰かを殺しただの、イノシシが暴れてるだの…あぁ暗い!暗すぎる!限定的な暗いニュースを、朝から無関係の全国民に見せつけるんじゃない!

今や20〜40代は、3人に1人が電車内でスマホを見ているそうだ。

スマホ、読書に広告チェック?みんなが電車内でよくすること – しらべぇ | 気になるアレを大調査ニュース!

もちろんSNSやゲームの割合も多いだろうが、通勤電車となればニュースを見る割合も高いだろう。そこで朝から暗いニュースばかり見せつけられても、全然気持ちが上がらない。そうは思わないかサラリーマンの諸君。

明るいニュースを教えてくれよ

もちろん明るいニュースだけでは、問題意識が生まれないため、何事も改善することができず前に進めなくなる。しかし、ハッピーなニュースで人々の心を弾ませるのも、ニュースアプリができる1つの社会貢献なのではないか。

悪いことは拡散されやすいが、良いことは目立たない。それはよくあることである。しかし、これほどまでに人々がネットで繋がった時代、ハッピーなニュースは、探せばそこら中に転がっているだろう。

Yahoo!アプリやスマートニュースなどのアプリで、ハッピーチャンネルのようなものを作ってくれないだろうか。世の中って悪くないのかもなぁ、と思えるような光り輝くニュース群を見せつけてくれないだろうか。朝からそんなことを考えた。

心弾むものって何だろう

なんて考えたものの、例えば明るいニュースって何があるだろうと思って探してみると、なかなか難しい。今日ざっと見たYahoo!ニュースの中で、心が弾むようなポジティブなニュースは…「座れる通勤列車が増えている」ぐらいか。微妙すぎる…。大して弾まん。そんなことより今すぐ僕を座らせてくれ。

誰かが結婚したとか、出産したとかいうニュースは、明るいとは言え、関係ない人には興味を持たれない。何だろう、心弾むニュースって。「今日から日本国民は働かなくても生活費支給します」とかかな。全力で弾むね。弾みすぎて破裂するかも。

現実逃避はこれぐらいにして、働いてきます。頑張りましょうサラリーマンの皆様。

「ゲス不倫」の当事者の話を聞いて

「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音さんが、「ワイドナショー」というテレビ番組に出演していた。前日から、「明日のワイドナショーに川谷絵音が出演する」とTwitterでも話題になっていた。理由はもちろん、不倫の話題になることが想定されたからだ。

個人的には、不倫なんて他人が口出しすべきではないと思うのだが、あの渦中にいた本人が当時のメディアに対してどのように感じていたのかは、聞いてみたかった。個人ブログも言ってみればメディアの一部なので、その辺りの扱いには普段から興味がある。

メディアの作り出すイメージの恐ろしさ

番組を見る限りでは、川谷さんは意外としっかりした人だな、という印象を持った。擁護するわけではないが、「ゲス不倫」という単語から想像されるゲスなイメージとは違い、芯の通った人に見えた。メディアが作り上げるイメージは恐ろしいなと実感した。

マスコミは、よく「マスゴミ」と揶揄されるほどプライバシーを気にしない。メディアは、人を人とは思わないような報道を繰り返す。

その視聴者となる大衆も、報道対象に非があるとわかるやいなや、メディアのノリに同調する。その大衆を盛り上げようと、メディアはさらに過激な内容を投下する。結果として、本人のいないところでイメージが膨らみ続ける。

僕は、スキャンダルがある度に発生するこの流れが嫌いなのだが、そういう報道を好物にするワイドショー好きな人がたくさんいる以上、避けられないのだろう。

インターネットによる、殺伐とした世界

そしてこの動きは、インターネットが普及されたことでさらに助長された。報道の仕事をしていなくても、ブログやTwitterなどのSNSで、誰でも意見を述べたり拡散したりすることができる。結果として、発信することに慣れていなかったり、誇張しすぎることに抵抗のない一般人も、メディアの一部となった。

一般人がもう少しリテラシーを持てれば、メディアで作り上げられる異常なイメージも多少はマシになると思うのだが。川谷さんは毎日「死ね」と言われたり、殺人予告が来たりすると言っていた。不倫したとは言え、全く関係のない人間から、そこまで悲しいことを言われるなんて、さすがに殺伐としすぎている気がする。

週刊文春より非道なネットニュース

そんな内容に関連して、川谷さんのコメントの1つで、気になったものがあったので紹介する。

週刊文春ではちゃんといい感じで書いてあったが、ネットニュースでは変なところだけ切り取られた

一連の不倫騒動について我先にと記事に仕立て上げていた「週刊文春」。川谷さんが心の拠り所がない程落ち込んでいたときに、その週刊文春の記者に全てを話したそうだ。

それはもう、記者への相談に近かったという。すると、週刊文春はいい感じに書いてくれたが、それを拾ったネットニュースでは変なところだけ切り取られたそうだ。ネットではより多くの人にシェアされるように、誤解を生むような誇張した内容にしたのだろう。

個人的には、「週刊文春は酷い雑誌だ」というイメージがあった。人の不幸を食い物にして稼いでいる嫌な雑誌だと思っていた。

しかしこの件で見ると、もっと酷いのはネットニュースだったようにも受け取れる。「誰でも自由に使える」というインターネットの大きなメリットは、「信頼性のなさ」という大きなデメリットを産んでいると言える。

当たり前のことを、当たり前に

こういう状況を見ると、誰もがネットでノーリスクで儲けられるアフィリエイトやアドセンスの仕組みが、ネットの未来に悪い影響を及ぼさないだろうかと不安になる。しかし根本的には、悪いのはそれらの仕組みではなく、ネットを使う人間そのものにある。

不倫は良くないが、嘘や誇張し過ぎも良くない。技術の進歩に伴い凄まじい速さで発展してきたネット社会だが、それを使いこなす人間は、そんな当たり前のことすら、まだできていないのかもしれない。

LINEみどりくじで選ばれる10人

「LINEみどりくじ」なるものが送られてきた。LINEユーザーなら誰もが送り合える宝くじだ。なんと最大100万円を、送り手と受け手が半分ずつゲットできるという。

何もしてないのに、50万円が舞い込んでくるわけだ。毎日真面目に生きていれば、たまには良いことがあるものだ。神様は、しっかり僕らを見ていらっしゃる。ありがとう神様。


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ハズレた。

10人の親密な友達という壁

ところでこのくじは、送り手にもメリットがある。誰かに送れば、自分が50万円ゲットできるかもしれないわけだ。となると、できるだけ多くの人に送りたい。しかし送れる人数は「10人」と決まっている。この10人という枠が、僕を悩ませる。


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当たれば送り先にも50万円のプレゼントになるわけだから、そこそこ親密な人に送るのが普通だろう。しかし送られた側は「10人に選ばれた」ということを意識することになる。「え、俺コイツの親密な仲間トップ10に選ばれたのかよマジかよ」なんて思われたら、この先顔を合わせられない。

結果、家族と、ほんの一部の友達にしか送れない。「俺はコイツのトップ10に入って当然だろう」と思ってくれる友達は多くない。LINEみどりくじは、そんな悲しい現実を僕に見せつける。当たりもしないくせに、悲しみだけを運んでくる。

お互いに得するサービスを使いこなそう

このように、送った人と送られた人、紹介した人と紹介された人が、共にメリットを受けられるサービスは意外に多い。配車アプリの「Uber」や、そこから派生した出前アプリの「UberEATS」なんかも、お互いに2000円ぐらいの無料クーポンが貰えたりする。

どちらも首都圏のみであり、僕の家は利用エリア外であったが、利用エリア内に住んでいる人は使ってみるといいだろう。タダでタクシーに乗れて出前も取れるのだから、使わないと損である。

ちなみにホリエモンは、UberEATSのクーポンだけで37万円分貯まっているそうだ。どうやらクーポンコードをツイートするだけで貯まるそうで。全く、これだから有名人は。ねぇ。

持ちつ持たれつ生きていこう

そういえば「はてなブログ」でも、ブックマークし合ったり、星を付け合ったりする慣習があるようだ。確かにこの世は持ちつ持たれつなのは十分理解しているし、僕もたまには恩返し的なこともする。しかし、僕はあまり興味のベクトルが違う記事に対しては、ブックマークする気にはなれない。

せっかくなら、「これ面白い!」と心から思った記事にコメントしたいし、書いた方もそうして欲しいと思うのだ。「この前ブックマークしてくれたから、お返しにブックマークしてあげる」という馴れ合いが続くと、お互いダメになってしまう気がする。

また、ブックマークはまだしも、「星」をつけるのは、あまり意味がないように感じてしまう。星はいわゆる「イイね」の印だと思うが、これはブログには少し合わない気がしている。

TwitterやFacebookぐらい軽いものであれば「イイね」程度の意思表示でもいいと思うのだが、長々と書いたブログの記事1つに対して「イイね」では、どこに対してどう感じたのかが伝わらず、モヤモヤする。気にしすぎだとは思うが、気になってしまう。

もちろんこれは個人的な考えであり、「それがモチベーションになるんだ」という人もいるだろうし、それを否定するものではない。むしろその方が、持ちつ持たれつという、人間らしい美しい考え方なのかもしれない。それでも、本当に面白いと感じたものを賞賛し合うことが、ブログをより面白くする近道だと思うのだ。

学生たちの非効率な募金活動

駅前などで、募金を募る学生が横並びになって「募金よろしくお願いしまぁぁす!」と言っているのをたまに見かける。あれ、前々から思っているが、もう少し効率のいい募金方法はないのだろうか。

募金しにくい雰囲気

というのも、明らかに「募金しにくい雰囲気」 がプンプンなのだ。学生服の男子5、6人が必死に叫んでる中、まんまと募金しに行こうもんなら、確実に注目の的になる。その学生からはもちろん、周りの人からも視線が集まること間違いない。

相当な目立ちたがりでもない限り、その時点で既に恥ずかしい。さらに、お金を入れた瞬間「ありがとうございまぁぁす!!」なんて叫ばれようものなら、その場から逃げたくなる。顔を赤らめて逃げ出したくなる。募金額が10円だったりしたら死にたくなる。

壁を増やしてどうする

募金する側には、インセンティブがない。強いて言えば「社会貢献した」という自己満足感ぐらいだろう。逆に「お金が減る」という大きなマイナス面がある。募金してもらうには、その壁をクリアしてもらう必要がある。この時点で相当のハードルである。

なのにその学生たちは、「お金が減る」に加えて「恥ずかしい」という新しい壁を作り出してしまっている。すると、「募金してもいいけど、恥ずかしいからやめとこう」って人が少なからず出てくる。もったいない。効率が悪すぎる。

効率の良い募金方法を求めて

やるなら、いろんなパターンで試して、1番募金してもらえる方法を見つけた方が良いのではないか。学生の人数、声のかけ方やボリューム、場所、服装、男女比など、それぞれ変えれば結果が変わってくるはずだ。細かなところでは、コンビニにあるように、箱を透明にしてお札入れておくのも必須だろう。

あとはできるだけ募金しやすいように、Suicaで募金できるようにするとか。今時現金は流行らない。財布出すの手間だし、特に若い子は電子マネーに流れてきている。さすがに学生たちだけの力では難しいかもしれないが。

募金に励む学生の心意気は凄いと思う。貴重な自分の時間を割いてでも、誰かを助けようとしているのだ。だからこそ、非効率に使ってはもったいない。その辺りを、先生が指摘してあげるべきだと思うのだ。ガムシャラに根性だけで頑張るのはよくない。大勢、大声は逆効果だ(たぶん。違ったらすみません)。

個人的には、お金を持ったおっさんたちに対しては、美人学生2人ぐらいで狙い撃ちで声をかけるのが1番効率的な気がするがどうだろう。もしかすると、全員がバイトして稼いだお金を募金するのが1番早いのかもしれないが。

ゼルダの伝説を義務教育に?

今回はゲームの話。あまりブログにこの手の話は書かないのだが、久々に時間を忘れて熱中したほどのゲームだったので、たまには書いてみる。

ゼルダの伝説を教育に使う?

ゼルダの伝説BoWを義務教育で導入してはどうだろうか?

レジの待ち時間にスマホをいじっていると、こんなタイトルの記事が目に留まった。「ゼルダの伝説BoW」とは、任天堂を代表するゲーム「ゼルダの伝説」の最新作(Breath of the Wild)である。ゲームを義務教育に導入するなんてあり得ない。一般的には、そう思うだろう。

しかし、恐らく本作をプレイしたことのある人であれば、中身を読まなくても言いたいことはなんとなくわかるはずだ。その感覚は、このゲームが限りなく「自由」であることから来る。

上の記事だけでなく他のブログなどでも散々書かれてはいるが、このゲームの根底には、圧倒的な自由度の高さがある。知らない人向けに、雰囲気がわかるCM動画を貼っておこう。

 

いきなり「義務教育に」というのはさすがに極端だし、多少は冗談めいたものだとは思うが、この自由度の高さから少なくとも他のゲームと比べても学べるものは多いだろう。もう少し詳しく語ってみる。

他に類を見ないほど自由な世界

このゲームの最も大きな特徴は、オープンワールドの世界だ。オープンワールドとは、「舞台となる広大な世界を自由に動き回って探索・攻略できるように設計されたレベルデザインを指す言葉」だという(Wikipedia)。つまり、一本道ではなく、プレイヤーが自分で行動を考え、選択しながらプレイするものだ。

オープンワールドのゲームは他にもあるが、今回のゼルダはその中でも他に類を見ない程の素晴らしい出来栄えであり、日本でも海外でも絶賛されている。

ストーリーだけでなく、ダンジョンの謎解き、目的地までの移動手段、ダメージを受けたときの回復方法、寒さや暑さを凌ぐ方法など、あらゆる問題に対して様々な解決策があり、どれにするかはプレイヤー自身で決めることができる。

誰もがオープンワールドの住人である

この現実世界も、言ってしまえばオープンワールドである。どこに行こうが、何をしようが、法律さえ守っていれば自由だ。生き方は無数にあり、何をするにも正解はない。プレイヤーである僕ら自身が、様々な選択肢の中から選びながら生きていく。

しかしながら、昔ながらの慣習を大切にする大人たちは「大学を出て、サラリーマンとして1つの会社で一生働き続け、結婚し、車を買い、家を買い…」なんていう一本道ルートを勧めてくることが多々ある。

それは彼ら自身の過去の経験をサンプルにしたものであり、今の時代に合っているかどうかは別である。彼らは、そのルートがグッドエンドに向かうかどうかわかっていない。「今も昔も同じだ」という根拠のない勝手な感覚を持っていることが多い。

そういう意味ではこのゲームの方が、様々な生き方があることを教えてくれるという点で、まだ学びがあるかもしれない。何をするにも、選択肢はたくさんあるということに気づかせてくれるだろう。

…などと多少大袈裟には言ってみたものの、それほど良くできたゲームであることは間違いない。

僕らの人生は、僕らが選ぶ

そういえば別の方面からも、先日似たような思いを感じた。ゼクシィのCMに感動するというTwitterのまとめがある。そのCMのコピーは、

結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです

というもの。結婚以外にも幸せになる選択肢がある今だからこそ、「結婚すること」にさらに意味が出てくる。幸せになりたいなら結婚すべき、という堅苦しい考え方にウンザリしている人の心にも刺さる言葉だろう。僕もグッと来て思わずツイートしたぐらいだ。

ゲームだけではなく現実の生き方そのものも、ますます多様化しているこの時代。誰に何と言われようと、選択肢を選ぶのは自分だということを忘れずに、楽しんでいきたいものだ。

納得できない、電車の遅延理由

「前を走る電車が遅れているため、この駅でしばらく停車いたします」という電車アナウンスをよく聞くが、毎回これに違和感を感じる。周りでそういう意見を聞いたことがないので、僕だけなのかもしれないが、せっかくなのでブログに書いておく。

納得できる遅延理由

まず、時間通りに目的地まで到着させるのが電車の役割なのだから、時間通りに着かないと乗客は納得しない。そもそもこの考え方が厳しすぎるのではないかという話もあるが、それは一旦置いておく。とにかく乗客からすれば、お金を払ってるんだから予定通りに着いてほしいわけだ。

そのため、遅れるのであればそれ相応の理由がないと納得できない。それ相応と言っても、別に難しいものではない。よくある「線路内への人の立ち入り」でも、「急病人の対応」でも、「強風による徐行」でも何でもいいのだ。「あぁ、それなら仕方ないね…」と思える理由があればそれでいい。

前の電車のせいにするだけでいいのか

しかしだ。「前を走る電車が遅れているため」と言われて納得できるだろうか。「前の電車も、あんたたちの会社が走らせてるんじゃないの?」と思ってしまう。「じゃあ前の電車は何で遅れてるの?」と考えてしまう。結局、遅れている理由がわからずモヤモヤする。

例えば普通の民間企業で、客への納期が遅れたときに、「先行していたプロジェクトの遅延により遅れました」なんて言って納得する客はいない。「なぜ遅れたんだ」「事前に防げなかったのか」「対策を考えろ」「根本原因は何だ」「横並び確認はしたのか」「再発防止はどうする」などという話になり、場合によっては賠償金が絡んでくる。

そういう目線から見ると、鉄道会社は甘い仕事してるんだなぁと思えてしまう。いや、別にそこまでの細かい報告は聞きたくないし、実際はいろいろ大変なんだろうと思う。あんなに大量の人間を毎日運んでるわけだから、見えないところで、とんでもない苦労をしているのは間違いない。面倒な乗客も山ほどいるだろうし、理不尽なクレームもあるだろう。

だとしても、そのアナウンス1つで、そんな印象を持ってしまうのだ。それがもったいないと思う。恐らく情報共有の仕方1つで、遅延理由なんてすぐに伝えられるはずなのに。

本当は何も気にせず許し合いたいんだよ

厳しいことを書いたが、僕は本当はそんな時間に厳しい社会が嫌いだ。電車遅延で駅員に怒鳴っている面倒な客を見るとウンザリする。僕自身、電車の数分の遅れなんて、正直あって当然だと思う。

理想的には、命に関わらないものであれば、大抵のことは遅れても許容し合い、のほほんと暮らせるような社会がいい。日々、納期に追われて残業するのはもう飽きた。

とは言うものの、人生は有限であり、お金が絡んでくる以上、ビジネスで何があってもお互いを許し合うのは難しい。これを読んでくれた大抵の社会人も、毎日スケジュールを気にして意識せざるを得ない生活をしているだろう。それが現実である。

ただしそれは、日本では、の話だったりする。海外では時刻通りに電車が来るなんてあり得ないという話も聞く。数分の遅延で謝罪するアナウンスを聞いて驚く外国人もいた。日本も、いずれは文化が変わり、もう少し時間を気にしないようになったりするのだろうか。

知らない人とLINEで話せるか

インターネット上では、知らない人と繋がることができる。Twitter、Facebook、Instagram、LINEなど、様々なSNSで、IDさえわかれば、見たことも話したこともない相手と会話することができる。

僕は普段メインで使うのはTwitterとLINEぐらいだ。Twitterは知らない人同士が簡単に繋がるが、LINEはそうでもない。仲の良かったり、関係が近い人、少なくとも1回は会ったことのある人と会話する場合がほとんどだろう。

公開用LINEアカウント

以前、「LINE@」というサービスが流行った頃、僕もブログで一時的に導入してみた。LINE@とは、情報発信用の公開LINEのようなものだ。いつも使っている個人アカウントとは別に作れるので、もちろん個人の素性は相手にわからない。

ブログにアイコンを設置すると、それをタップした人が普通にLINEでメッセージを送ってくれる。そのチャットは1対1なので、普通のLINEと変わりない。友達や家族とLINEするのと同じ感覚で会話できる。

1ヶ月ほど設置していただろうか。確か10人ほどフォローしてくれていたと思う。その中でも、3人がLINEで僕にメッセージを送ってきてくれた。

学生からのメッセージ

僕は当時、ジャンルを問わずブログを書いていた。そのため見てくれている人の世代は様々だったが、メッセージをくれたのはどれも学生だった。女子2人、男子1人。うろ覚えだが、2人が高校生で、確か1人が大学生だったような気がする。

メッセージの内容は、「こんにちは!○○の記事からきました!」のような感じだった。軽い質問はあったが、しばらく会話していると、何かを確認したいというよりは単純に雑談がしたいんだろうなぁ、という印象を受けた。

若い人は他人と関わる際の心理的障壁が低い上に、LINEで誰かと繋がることにもあまり抵抗がないのだろう。自撮りのアイコンになっているぐらい開放的だった。知らない人でもメッセージをくれるのは嬉しいものだ。

会話がベースのコミュニケーション

しかし、僕はしばらくしてそのLINE@の設置をやめた。単純に言うと「忙しかったから」なのだが、もう少し詳しく書いてみる。

「既読」機能や吹き出しの表現からもわかるように、LINEは会話ベースのアプリである。自分が話したことを相手が聞いているかどうか即座にわかる。

そのため、テンポ良く会話しないとLINEの良さは失われるし、毎回返事に相手を待たせていては話がなかなか進まない。その辺りが、メールのやり取りでは気にならなかったのに、LINEでは気になってしまう。

メッセージをくれたのは学生だったが、僕は働く身であり、当時は特に忙しく、返事できるほどの余裕がなかった。放置することも多く、その申し訳なさもあり、LINE@の設置をやめた。会話自体はすごく面白かったのだが。

程よい他人との距離感

そんな経験から改めて思ったのは、「他人との会話」においては、LINEは少し距離感が近すぎるということだ。お互い既読で返信がなくても気にならない程度の関係が築けていないと、どうしても気を遣ってしまう。暇ならずっと喋っていられるのだが。残念ながら社畜だし。

そういう意味では、Twitterはよくできていると思う。あくまで個人のツイートがメインであり、会話がメインではないから気を遣わなくていい。知らない人との距離感としては、ちょうど良いぐらいなのではないだろうか。

ここ2年ぐらいで「ソーシャルギフト」というものも流行っている。相手の本名も住所も知らなくても、アカウントさえわかれば、プレゼントを送れるというものだ。距離感を保ちつつ好意を届けられるという意味ではこれも面白いサービスだと思う。

個人そのものと、ネット上のアカウントは、これからますます境界が薄くなっていくはずだ。他人同士はより強く繋がることになるだろう。今までの距離感と、これからの距離感は変わっていくのかもしれない。その辺りのギャップを上手く埋めつつ、生きているうちに、多くの人と仲良くなっておきたいものだ。